#48 筑波大学時代の「やれよ」と、今「やれてるのか?」という自問自答。

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大学時代、蹴球部(サッカー部)では何かにつけてみんなが「やれよ」と言っていたなあということを今朝思い出しました。

 

久しく聞いていなかった言葉で、久々に思い出すとすごく大事だったなと感じます。

 

「やれよ」

「しっかりやれよ」のやれよなのか

「闘えよ」をやれよと読むのか

そんなことを考えたことはありませんでしたが、とにかく何かにつけてみんなが「やれよ」と言ってました。

 

サッカー中でも、大学内でも、遊んでいても、飲んでいても本当に「やれよ」「やれよ」だった気がします。

 

先程書いたようにこの「やれよ」は、何かをしっかりやっていないやつに対して「しっかりやれ」という意味で使ったり、何かに対して闘えていないやつに対して「闘え」という意味で使います。

 

闘う対象は自分であったり、サッカーの相手であったり、イベントに参加できるか否かであったり、飲み会であったり、女の子対して一歩踏み出せるかどうかだったり、と多数多様です。

 

しっかりやることに対しても、仕事や練習への取り組み、サッカーのプレーの成功不成功、最近弛んでないかという指摘などなど、これも多種多様でした。

 

「やれない」やつに対しては「やれねーか」が決まり文句です。

 

この「やれよ」ですが、冗談っぽくいう時もありますが、真剣に使う時もあって、オフ・ザ・ピッチで自分の不注意や気持ちの弛みがあったり、オン・ザ・ピッチで気の抜けたプレーをしたり、ボールを取られても追わなかったり、と本気の指摘としても使ってました。

 

特にオフ・ザ・ピッチでの「やれよ」は卒業してから言われることが少なくなり、今日ふと考えると、自分は「やれてるのか?」と不安になったんですね。

 

周りに指摘してくれる人がたくさんいたのは本当に恵まれてたなと思うとともに、今後「やれよと言われることはどんどん減っていくんだなと思うとなんか寂しい気持ちになります。

 

となると自分自身で「やれてるのか?」を問いかけ続けなければならないわけです。

 

自問自答ですね。

 

まとめ

と、今朝の同期の近況報告(卒業してから週ごとに順番にみんなで行なっている)で久々に「やれよ」の言葉をみて感じたのでした。