トレーニングを行なっていく上で、それが競技専門的なトレーニングでもフィジカルトレーニングであっても「良いトレーニング」をしたいというのは誰しも考えることです。
「良いトレーニング」というと、とても曖昧でなんだかわからないような言葉になってしまいますが、トレーニングする以上は「良くないトレーニング」よりも「良いトレーニング」をした方がいいに決まってますね。
そうなると「良いトレーニング」ってなんなんだろうな、というのは考え続けなければいけないわけです。
(ここでの「トレーニング」はフィジカルトレーニングや、ある一つのトレーニングエクササイズをを刺したわけではなく、もっと広義の「競技力向上のために行う鍛錬や行為」という意味で捉えてください。)
良いトレーニング
本や論文を読んだり、動画や実演を観たり、先人たちから学んだり、自分で動いてみたり、自分の頭で色々考えてみたり、他のトレーニングや条件との組み合わせを考慮してみたり、ちょっと選手にやってもらっていたり etc...と、トレーニングを他人に指導するという場合にその前段階には様々なことがあると思います。
そんな中で、何かしらの目的に合わせてトレーニングを選択していきます。
そのトレーニングは「良いトレーニング」であるべきです。
なぜなら選手は「良いトレーニング」以外のことをしているほど時間があるわけではないからです。
では「良いトレーニング」とはどんなトレーニングなのでしょうか。
「良いトレーニング」に関して、「良い練習」という視点から「バスケットボールの教科書1 技術を再定義する」から以下引用してみます。
いま行なった練習と比べて、もっと良い練習はなかったか、いまチームに必要な練習はなかったか、と問い続けましょう。どんな練習にも、それが「良い練習」である理由が一つくらいはあるものです。
我々に求められているのは、その練習が「良い練習である理由」ではなく、「他にもっと良い練習はないか」という考察の結果、この練習を「選んだ」という理由なのです。 「バスケットボールの教科書1 技術を再定義する」p.16 より
白鳥を100羽並べて、「ほらね、白鳥って白いでしょ?黒い白鳥なんていないんだよ」と言いました。これは、正しい照明の仕方でしょうか? (中略) 黒い白鳥がいないことを証明するためには、白い白鳥を何羽並べても証明にはならないのです。これと、良い練習の証明は同じです。良い理由を何個ならべても、良い練習の証明にはならないのです。良い練習の証明は、他にもっと良い練習はなかったかという切り口で考えなければならないのです。 バスケットボールの教科書1 技術を再定義する」p.16 より
ここで言われている「他にもっと良い練習はなかったか」という思考は非常に重要だと感じました。
トレーニングに関して、「良いか悪いか」「効果があるか効果がないか」「0か1か」という二項対立構造で語られることが多いです。
それが良いトレーニングだと判断されたら、「〇〇と◇◇が良い点だからこれは良いトレーニングだ」とされますし、「良くないトレーニング」だとしたらその逆です。
もちろんそのように考えることも必要であることは必要だと思いますが、実際にはケースバイケースであることが多いですし、またより良いものを目指していくという視点では上記の「他にもっと良いトレーニングはなかったか」という切り口で思考していくことが必要だと感じます。
基本的に多くの人は「これが良い」と一度思ってしまったら、そこから抜け出すのは簡単ではないです。
それが仮に正しいものであったとしても、一つの物事を「良い」と確信してしまった瞬間にそこからの発展の可能性はぐっと狭くなってしまうものです。
そうならないために、本章はじめの行為を繰り返し繰り返し継続していくわけですが、その前提の考えには「他にもっと良いものはなかったか」があるのではないかと考えています。
まとめ
情報過多の社会なので、「これは良いトレーニングだ」と感じることや、「一般的にこれは良いトレーニングと言われている」というものに出会うことは多いと思います。
その中でも「これが良いトレーニングだ!」と決めつけずに、あるいはその逆にも気をつけながら、「他にもっと良いトレーニングはなかったか」をその都度その都度考え、その上で選択していく必要があります。
そのような視点で考えると、「良くないトレーニング」も「最良のトレーニング」も存在せず、相対的な「良いトレーニング」がそこに浮かび上がってくるだけな気がしてきます。
終わりも答えもない行為ですが、指導する側は忘れてはいけないことだと思います。
参考